老天津と新らしい天津
- 第11話 -


小洋楼文化
『戈登堂』
現在の解放南路の『旧ドイツ倶楽部』
小洋楼(西洋風建築物)文化は天津の文化の一つである。小洋楼に住んでいる天津人は、とりわけ昔の天津では重要な意味を持った住民であった。北京の「四合院」、天津の「小洋楼」これらはこの二つの都市の重要なシンボルであった。
いわゆる 『小洋楼』とは天津の旧租界にできた庭園住宅である。 これら天津の洋風建築は阿片戦争の後 外国人勢力が入り込み 彼らが造った 彼らのための基地であり また 空間であった。 知るところでは天津に最初にできた 洋式建築はイギリス租界地の商社であった。 その後 フランス租界に『望海楼』教会ができた。その後 天津の「教案」が勃発、望海楼を民衆が焼き落とすと言う事件がおきた。 清政府は全くの無能で この跡地に新しい『望海楼』を建てた以外は 事を引き起こした民衆を鎮圧しただけであった。そのお陰で 新しい『望海楼』は古い望海楼より高さが3丈高くなったが 今に至っても 天津の一つの名所となっている。 時間がたつと 西洋人は更に多くの銀行、商社、その他 多くのホテルなどを建築した。 その中で 特に有名なのは 『戈登堂』『利順徳ホテル』等であり その他 かつてドイツ領事館であった『ドイツ倶楽部』、 更にその後建てられた『开滦大楼』、『恵中飯店』『渤海大楼』等である。 この結果天津は高層建築林立する都市になったのだ。

現在の『望海楼』
義和団に焼き落とされた『望海楼』

西洋人が高層建築を建てていたころ また庭園式建築も建てられていた。  これらの庭園式住宅を天津人は『小洋楼』と呼んでいた。  これら小洋楼は大部分は英国庭園式の建築で 大きな 本当に大きな庭に芝生が植えてあり その奥に小さな建物が建っている。  建物自体の高さは高くなく せいぜい2階建てで 尖った赤い屋根と大きなベランダ まるで西洋油絵から出てきたような建物だ。  これらの庭園式住宅以外にも イギリス租界のは多くの一般建築があり これらの建物には大きな庭園は無いが 住み心地は非常にいいものだった。  これらの住宅は大体3階建てか4階建てで 居間、客間、浴室など ひとたび門を閉めてしまったら 全くイギリスのものと変わらなかった。 
天津の最も有名な小洋楼もまた軍閥が建てたもので 張という姓の一人の軍閥の住宅だった『張园』だ。  建物は2階建てで 屋根の上には尖ったドーマ  小さな庭園と 庭園の中には小さな山あり、小川ありで非常に優雅な環境である。 『静园』もある大軍閥が建てたもので その軍閥は日本のメシを食べたので 日本住居を建てた。 部屋は襖で分けられており 部屋に入るとき靴を脱ぎ 庭にはランプがあり、石畳の道、塀、門は質素で華やかさは無く、 「静」と言う字を表している。 その後 最後の皇帝ははここに住み それから日本軍によって東北に連れて行かれた。 ここから彼の傀儡皇帝が始まったのである。

張園の大厅

現在の『静園』の入り口
現在の『静園』の様子 荒れ果てたまま
最後の皇帝「溥儀」が暇つぶしに遊んだビリヤード(静園内部)
かつて孫文が住んでいた「張園」

小洋楼に最初に住んでいたのは あたりまえのことだが 皆 治外法権の外国人たちであった。彼らは植民地を開拓した人たちであり また 自分達の楽園を作った人たちでもあった。 それから 暫く後 西洋の味をしめたもの達が 租界地にやって来て 西洋人たちのように 自分で小洋楼を建てたのだった。 こいつらは 全部西洋人の顔色を伺いわれら中国人を侮り威圧した偽洋畜生どもたちである。 またその後下賎な軍閥が外国の保護を求めようと 租界地に不動産を置き「剣を捨て 善人になる」日々を過ごし始めた。 そこで 天津は一日一日次第に小洋楼区が出来始めたのだった。 この地区の住人は西洋に迎合するか 西洋の文化を受け入れる中国人がほとんどであったが、勿論僅かであるが 老天津人もいた。

その後 外国人相手の結構有名な商社をやっていた年上の親戚に話を聞いたことがある。どうして私達は租界地に家を買わないのか?と。  すると彼はこのように言った。「我々は由緒ある家の出だ。たとえ外国人相手の会社をやっていても 外国人のメシを食べたとしても 本質的に天津城からは出られないんだ。 つまり文化的にここに根を下ろした以上ここから離れられないんだ。」 天津の租界地に住んでいた中国人それは殆どが外地から来た中国人たちだった。 彼らは天津に来ると やはり 天津の旧城の中の不動産を買うより いっそのこと租界地の不動産を買うほうが良いし 古い家を買うより やはり 『小洋楼』を建てる方が良いのだった。 いわゆる天津の『小洋楼』はもともと外来文化と江南文化の変異で出来上がったもので 本来の純正の「老天津」と言える部分はほんの僅かなのである。

最初の頃は『小洋楼』に本当の天津人は殆ど住んでいなかったが 天津人と小洋楼文化とは密接な関係が出来てきたのだった。 たとえ 外国人だけであっても 外地の人たちだけであっても その文化を自分達だけで享受することは出来ない。  小洋楼が天津で一つの文化を創造した以上 それは天津人を引き付け それを共に享受するようになってきた。 もっと分かり易く言うとすれば 『小洋楼』は楽しく面白いところになってしまった以上 天津人を引き付けそこで金を使うようになり 共に楽しさ、文化を享受するようになったと言うことだ。

『小洋楼』の文化の根本とは 即ち 西洋の生活方式と西洋の価値観である。 租界には日本の租界もあったが 日本固有の生活方式は中国人にとって魅力ではなかったし、日本人の生き方は煩わしいと思っていた。 実際日本人は租界地全面西洋化の道路にし さらにそれは中国人よりも徹底していた。 日本租界には日本人が住んでいたが 天津の『小洋楼』文化には東方文化は含まず 徹底的に西洋文化したものを指している。

西洋文化のもう一つの特徴は 「健康」と「病的」、「有益なもの」と「有害なもの」すべて混在しているのであった。 貴方がそれを受け入れようとしたとたんに 抵抗力を失ってしまうのだ。 洋服を着る、西洋料理を食べる、映画を見る、ダンスホールに入る このような西洋文化を受け入れた瞬間に これらの文化がもたらす心の中のうずうずした気持ちを受け入れねばならない。 このうずうずした気持ちにたいしては コントロールを失い 若者達は常軌を逸脱してしまうのだった。 西洋人にとって見れば 一人の人間が常軌を逸するなど まったく 驚くに値しない。 若者は結局常軌を逸するようなことをするからだ。何か事業を起こすとき 精力に漲り 強固な意志があれば それが好青年であり それで充分と思っているのだ。 しかし 我々の先輩達はそのようには見ない。 一人がダンスホールに入ったとしたら もうそれは大逆無道、魂まで奪われてしまうところまで行ってしまい とても許してもらえるものではないのだ。 どんなに事業のための精力に漲り 強固な意志があったとしても たとえどんな事情があるにせよ 何もさせてはもらえないのだ。 それは もう彼の目には「チンピラ」と映っていて もう一度使ってもらえると言うことは無いのである。

軍閥出身一時『総統』になった曹氏の私邸(米租界)
張学良が天津で住んでいた家

私が昔の租界地に住んだのは40年代初期で もう既に租界は無くなっていた。  名義上租界地は中国政府が引き継ぎ 九・一八事変以降 多くの外国人は中国の政局不安で 次から次へと中国から出て行った。  それと同時に 租界地の家の価格は暴落し ずっと租界地に住みたいと思っていた人たち、とても中産階級と呼べない人たちが 次々と租界地に移り始めた。  丁度その頃 私の叔父も昔の租界地の家を買った。 本当は祖父、祖母の為に買ったのだが結局彼らは昔から住んでいたところから出たがらず 私達が小洋楼区に移り住んだのだった。 

小洋楼に移ると感覚が全く変わってしまった。 誰しも一人一人に自分の空間があった。  我々兄弟達はどんなことが有っても 家の中で造反していた。2階にいる父の声も聞こえないのであった。  四合院の正房の主人が咳払いをすると 四合院内の全ての人が 驚き聞き耳を立てていたのであった。  四合院は永久に最高権威、権力を行使するに最も理想的な家であったに違いない。  四合院ではいつも自分がどんな地位に有るのかということを思い出させるのだが 小洋楼では一種平等な感覚を覚えさせる。これが小洋楼文化の根本的な特徴だ。 

小洋楼に住み始めると 生活に大きな変化が生じ始めた。 そのとき私は小学校に通っていたのだが 兄は中学で 教会学校に通った。 門に入ると英語しか聞こえなかった。 それは 学校の中では中国語は使ってはいけなかったからだ。 
更に言うと 生活でも大きな変化があった。朝食の「煎餅果子」は牛乳とパンになった。 まあ 西洋方式の生活を追い求めるのを止め 「煎餅果子」が食べたいと思っても 買いに行くところが無かった。 小洋楼居住区では老天津衛の生活をしたくても だれも待ってはくれない。 服装に関しては 父は「长衫马褂」を脱ぎ捨て スーツを着、ネクタイを締め 革靴を履き、革の鞄を持ち 完璧に新派流行を追った人になった。 人との接触でも大きな変化があった。 昔は友達に会ったら 両手を合わせ拳を作って挨拶したものだが 今は近くに寄って 握手を交わすのだ。 昔年上の女性には「婶子大娘」と言ったものだが 今では「伯母阿姨」と言う。  天に祈るとき「老天爷」と言ったものだが 今では「上帝」と言う。  昔は人を罵るとき「臭王八羔子」だったが 今は「魔鬼」と言うだけで 完全に西洋化してしまった。 

『小洋楼』居住区。 そこには 純粋なもの 混沌としたものが同居する。  『小洋楼』の文化には功もあれば罪もある。 全て今となっては過去のものとなってしまったが、  それが正しいことだったのか? 間違っていたことなのか? 後世の人にその評価を待つことしか出来ない・・・・

Note1:清代末期 キリスト教の教会と中国人民との衝突によって引き起こされた訴訟事件(小学館中日辞典より)
Note2: 昭和6年(1931)9月18日、関東軍(下記参照)が、奉天(現在の瀋陽)北部の柳条湖において南満州鉄道の線路を自ら爆破し これを中国軍のしわざとして攻撃を開始して始まった。 政府は不拡大方針をとっていたが関東軍が独走し、  翌1932(昭和7)年1月までにほぼ東北三省を占領、3月1日満州国の建国を宣言し、  9月 齋藤實内閣は日満議定書に調印して満州国を承認した。

関東軍: 満州にすむ日本人の財産や鉄道を守るという名目で作られた軍隊。日露戦争後、関東総督府が関東庁へ改められた際(1919年)、その陸軍が独立したものである。日本の満州支配の中核を担った。(『広辞苑』より)

Note3:写真は相声であるが 彼らが着ている服を「长衫马褂」と呼ぶ

万国建築博覧 砲火下での投書

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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