老天津と新らしい天津
- 第12話 -


砲火下での投書

奇妙な話だが本当の話だ。 骨董に夢中になっている中上流社会の人が なんと 突然アヘンの煙管を収集しようと古物市場に行き 見つけるとよろこんで 買い 秘蔵品とするのだ。  『文物』の収集と綺麗な言葉で飾っても それは かつて我々中国人民を苦しめたもので、それを『珍品』として集めるというのは 奇妙なことだ。  趣味のものを収集する人にはアヘンの煙管もそれは骨董品なのだ。 しかし 私はそれらの人たちも アヘンがどれほど中国人民を害したのかということをもう少し理解する必要があるのではないかと思う。

1930年代 天津人の中でアヘン中毒に冒されていた中毒者は、幾万にも登る数であった。  小さいとき高足踊りという民間芸を見たことがある。   その芸には アヘン中毒者を演じる人と もう一人警官を演じて人がいる。 警官は逮捕する人ための鉄の鎖を手に持って引きずりながら歩いている。  阿片中毒者を捕まえに行くのだ。 一方阿片中毒者の手は一本の煙管を握っているのだった。  それは まさに 収集家たちの目には貴重な『文物』として映っているその煙管だ。

阿片中毒者
阿片中毒者

北方のアヘンは北京の八旗の子弟が始めた。 北京と天津はそれほど遠くないので 天津に広がるのはそれほど時間はかからなかった。 天津の暇人たちは八旗子弟を装いアヘンを吸うのだった。 アヘン中毒は次第に激しくなっていき そのうち 暇人だけでなく 貧しい人たちにまで広がってきた。 清代中期には天津では どこもかしこもアヘン中毒者であふれ返っていた。

清代のアヘン中毒者を私は見たことが無いが 1930年代のアヘン中毒者を見たことがある。  阿片中毒は一つの悪行であるが 清代の阿片中毒と中華民国でのアヘン中毒を比較してみると 頭の後ろのみつ編のような一本のお下げが有るか無いかの違いだ。 彼らの間にはいささかの世代の違いは感じられない。

アヘン中毒者それはみんな痩せこけ 生気がなく 重病を罹った人のようで 道を歩く姿も 全くよたよたと力が無く 風でも吹けば すぐに倒れてしまうような人だ。  アヘン吸癖が出てくるときは もう一種の泥沼で 道路の上に寝転び 話をする元気も無く そういう人を見ると 恥ずかしい気持ちに駆られてしまう。  天津の結構金持ちの家もアヘンに犯され 家を潰し 路頭に迷い 飢えと寒さで死ぬと言うことも珍しくなかった。 

我が家は天津でも結構声望高いほうであったが、叔父は気骨のある人ではなかったので このような悪癖に取り付かれた。  夜になって 外から泣き声が聞こえてくるとお爺さんが誰かに何事か聞きに行くように行ったものだった。  それは結局 阿片中毒に陥った出来の悪い叔父が表で 「少しお金をくれ」と泣いているのだった。  お爺さんは 当然出てきて 叔父に説教するのだったが 帰ってくると みんなに 「本当に恥知らずで どうしようもないやつだ。どれだけ言っても分からないやつだ。」  と言いながら 自分で小銭をやっては 自分をなじっているのだった。

阿片を売っている店

丁度
「林則徐」が広東で阿片禁止を訴えているとき 英国東印度社は天津が阿片密輸の最大市場であると見做し 清道光12年英国阿片密売人たちは直接天津に阿片の密輸を始めた。  英国阿片密売人達は 『阿片密輸船が天津の港に着くと 役人の検査は何もなく 税関で係りのものがざっと見るだけだ。』と言うのであった。  このように 阿片は事実上税関のない港から中国大陸に入り 国中を毒したのだった。  そのころの天津には 阿片用煙管はどこにでも売っていた。 阿片煙管の看板が町に溢れ、ことのほか商売繁盛していた。  当時ある人が対聯に阿片の恐ろしさを書いていた。  『一杆竹枪, 杀遍豪杰英烈不见血; 半盏灯火, 烧尽房产地产并无灰』(竹鉄砲〔阿片を吸う煙管の事〕でどんな勇敢な豪傑も血を出さずに殺してしまう。 僅かな火〔阿片を吸うための火〕阿片は家も土地も灰も残さず焼き尽くしてしまう。)  当時直隶の総督「琦善」は朝廷に天津で没収した阿片約1.5トン、大沽口の『金広興』号の船で発見したものが阿片89袋(約6.5トン)、鉄砲が107丁もあったと報告している。  このように 大量の密輸が すでに堂々と輸送されていたのだった。 

悲しい事実は 人は誰でも阿片は人を毒すと知っていて 誰もその阿片商売を制止できる能力が無かったことだ。  帝国主義者の砲艦の前では 清政府は阿片流入をただおとなしくみているほかは無かったのだった。 

1840年6月下旬英国が派遣した海軍4000人、戦艦40隻あまりが珠江の河口に来 中国政府を威嚇したが 「林則徐」は広州で英軍が上陸できないよう準備をしていた。 英軍はそこで 一部兵を広州に残し 北上し、直接清政府の心臓 大沽口に向かった。 清朝は英軍が天津に向かっていることを全く知らなかった。 当時天津には兵が800人 全く戦闘力は無かった。  英軍が入港してくるのをみすみす 指を銜えて見ているしかなかったのだった。 

英国船の天津大沽口入港に 清朝道光皇帝はたいへん驚いた。 この時英国政府から海軍総督兼全権代表は清政府に対し 威嚇のための投書が提出された。  これが歴史的に有名な『白河投書』である。

香港の運命を決めた天津:白河投書

道光皇帝は英国の『投書』に対し すぐさま「琦善」を派遣 英国、フランスとの交渉に当たらせた。  英国海軍総督はその時出席せず 彼の弟『義律』が代表として「琦善」との交渉に当たった。  総督はその時 河口状況、水の状況などを測定させ 浮標を設置するなど その後の侵略の準備を進めていたのだった。 

交渉で英軍が提出した条件に対し 「琦善」は従順そのもの まるで奴隷のように 何でも頭を縦に振るのであった。  この時の様子は『中西紀事』に書かれており、英国海軍代表は 交渉時 笑ったり怒ったり ひどい時には 洋剣を振りかざす事もあった。  しかし 「琦善」は 彼ら侵略者達を 皇帝の客人として交渉し結局 英国、フランス両国と 屈辱的な《南京条約》を締結することになったのだった。

1900年の天津の城壁 壊れている部分は8国聯合に壊された部分
天津港に入港した外国の軍艦
(注)南京条約は第7話『戈登花園』を参照

Note1: 八旗[はっき]制度. 『参考』清朝の満州族の軍隊組織と戸籍編制.八旗とは正黄・正白・正紅・正藍(四つの原色)とじょう黄・じょう白・じょう紅・じょう藍(四つの原色に別の色の縁取り)の8種の旗じるし.のちには蒙古八旗・漢軍八旗を増設した.八旗に属する官吏は常時は民政を掌管して戦時には将校となり,平民は兵役に服する.(小学館中日辞典より)
Note2: 『林則徐』は1785年福建省候官(現在の福州)に生まれ 阿片禁止と外国の侵略に対し抵抗した愛国政治家として有名。 また一切の外国貨幣の使用を禁止し 中国近代貨幣改革のきっかけとなった。
1812年(嘉慶17年)湖広総督に就任したとき 阿片が大きな弊害になっていたため 阿片禁煙とする案を提案するが失敗に終わる。
1814年(嘉慶19年)外国の阿片販売者に期限内に阿片を提出する令を出し 英国船の船にある阿片を全て没収した。 この時没収した阿片は119トンに上った。
福州市にある林則徐記念館
Note3:対句を書いた掛け物で 紙や布に書いたり 竹や木の板に刻んで 主として掛け軸として観賞するものを指す。

小洋楼文化 次は工事中

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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