老天津と新らしい天津
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- 第12話 - |
砲火下での投書 |
清代のアヘン中毒者を私は見たことが無いが 1930年代のアヘン中毒者を見たことがある。 阿片中毒は一つの悪行であるが 清代の阿片中毒と中華民国でのアヘン中毒を比較してみると 頭の後ろのみつ編のような一本のお下げが有るか無いかの違いだ。 彼らの間にはいささかの世代の違いは感じられない。
アヘン中毒者それはみんな痩せこけ 生気がなく 重病を罹った人のようで 道を歩く姿も 全くよたよたと力が無く 風でも吹けば すぐに倒れてしまうような人だ。 アヘン吸癖が出てくるときは もう一種の泥沼で 道路の上に寝転び 話をする元気も無く そういう人を見ると 恥ずかしい気持ちに駆られてしまう。 天津の結構金持ちの家もアヘンに犯され 家を潰し 路頭に迷い 飢えと寒さで死ぬと言うことも珍しくなかった。
我が家は天津でも結構声望高いほうであったが、叔父は気骨のある人ではなかったので このような悪癖に取り付かれた。 夜になって 外から泣き声が聞こえてくるとお爺さんが誰かに何事か聞きに行くように行ったものだった。 それは結局 阿片中毒に陥った出来の悪い叔父が表で 「少しお金をくれ」と泣いているのだった。 お爺さんは 当然出てきて 叔父に説教するのだったが 帰ってくると みんなに 「本当に恥知らずで どうしようもないやつだ。どれだけ言っても分からないやつだ。」 と言いながら 自分で小銭をやっては 自分をなじっているのだった。
阿片を売っている店 |
悲しい事実は 人は誰でも阿片は人を毒すと知っていて 誰もその阿片商売を制止できる能力が無かったことだ。 帝国主義者の砲艦の前では 清政府は阿片流入をただおとなしくみているほかは無かったのだった。
1840年6月下旬英国が派遣した海軍4000人、戦艦40隻あまりが珠江の河口に来 中国政府を威嚇したが 「林則徐」は広州で英軍が上陸できないよう準備をしていた。 英軍はそこで 一部兵を広州に残し 北上し、直接清政府の心臓 大沽口に向かった。 清朝は英軍が天津に向かっていることを全く知らなかった。 当時天津には兵が800人 全く戦闘力は無かった。 英軍が入港してくるのをみすみす 指を銜えて見ているしかなかったのだった。
英国船の天津大沽口入港に 清朝道光皇帝はたいへん驚いた。 この時英国政府から海軍総督兼全権代表は清政府に対し 威嚇のための投書が提出された。 これが歴史的に有名な『白河投書』である。
香港の運命を決めた天津:白河投書 |
道光皇帝は英国の『投書』に対し すぐさま「琦善」を派遣 英国、フランスとの交渉に当たらせた。 英国海軍総督はその時出席せず 彼の弟『義律』が代表として「琦善」との交渉に当たった。 総督はその時 河口状況、水の状況などを測定させ 浮標を設置するなど その後の侵略の準備を進めていたのだった。
交渉で英軍が提出した条件に対し 「琦善」は従順そのもの まるで奴隷のように 何でも頭を縦に振るのであった。 この時の様子は『中西紀事』に書かれており、英国海軍代表は 交渉時 笑ったり怒ったり ひどい時には 洋剣を振りかざす事もあった。 しかし 「琦善」は 彼ら侵略者達を 皇帝の客人として交渉し結局 英国、フランス両国と 屈辱的な《南京条約》を締結することになったのだった。
1900年の天津の城壁 壊れている部分は8国聯合に壊された部分 |
天津港に入港した外国の軍艦 |
Note1: 八旗[はっき]制度. 『参考』清朝の満州族の軍隊組織と戸籍編制.八旗とは正黄・正白・正紅・正藍(四つの原色)とじょう黄・じょう白・じょう紅・じょう藍(四つの原色に別の色の縁取り)の8種の旗じるし.のちには蒙古八旗・漢軍八旗を増設した.八旗に属する官吏は常時は民政を掌管して戦時には将校となり,平民は兵役に服する.(小学館中日辞典より) | |||||||
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