老天津と新らしい天津
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天津衛は中国のほかの地と同様に一番賑やかなところはやはり廟での縁日だ。
中国の廟の建築は大体似たり寄ったりだが それでもそれはそれぞれの趣や歴史がある。
そしてそれはその地の民族風習を現している。
天津に清の同治年間には既に300以上の寺廟があり その中でも「天后宮」は最も大きい中のひとつだった。
天津人は「天后宮」を俗に「娘娘廟」と呼んでいる。
現在 | 旧 | ||||
「天后宮」(2002年7月) | 「天后宮」 |
「娘娘廟」は元時代に建築され 漕運の安全を祈願して建てられたものだ。
「天后宮」には娘娘 つまり 妈祖(航海を守る女仙人)を奉っている。 旧暦3月23日が妈祖の誕生日であり
この日になると 天津人は勿論、天津人でなくても「娘娘廟」に線香をあげにくる。
何百里も離れたところにすんでいる人でも信じる人はここまでやってきて線香をあげる。
旧暦3月5日から娘娘廟は人でうまり連日「賽会」(みこしなどを担いで町を練り歩く祭り)が繰り広げられた。
娘娘廟やいろんな縁日に行くことは子供のころにとっては 大変な楽しみだった。
はや 春節(旧暦1月1日で中国の正月)の前から冬休みに入り みんなこっそり娘娘廟へ行ったものだった。
なぜこっそり行くかというと それは家が一人で行かせてくれなかったからだ。
そのころは 道に走る車も今よりずっと少なく 社会秩序もそれほど乱れているわけでもなかったが
家長はいつも 「誘拐されるぞ」と脅して行かせてくれなかった。
でも 子供にとって廟に行く魅力は大きく 友達と待ち合わせ 適当な口実を作り 「娘娘廟」に行ったものだった。
娘娘廟での一つの熱気のある現象は 年の暮れが近づくと いろんな正月のおもちゃ や 花火 が売り出されるのだった。
玩具といっても そのころは 電動のものなどなかった。 ほとんどが劇のお面で
子供に大変な人気があったのは 一つは孫悟空のものであったし 一つは八戒であった。
お面を買って それから 刀を買って腰に差せば まるで天下無敵の英雄になった気分だった。
正月になるとやっと父母が「娘娘廟」に連れて行ってくれる。このときにはさすがに殿様になった気分だった。
あれもほしいこれもほしいとねだることができたし ねだっても高高知れた値段だった。
私の記憶では 父母はいつも私の言うことを聞いてくれた。
「娘娘廟」から帰ると 誰もが自分のお面を持っていた。 みんな孫悟空か八戒であった。
みんな自分が強いと思っているので誰も譲らず 雌雄を決するのだが お面も刀もすぐにみんな壊れてだめになってしまうのだった。
城隍廟 現在
旧(天津市歴史博物館資料)
城隍廟は現在ほとんど形をとどめていない。
「城隍廟」
「城隍廟」の竹馬祭りの様子。
「城隍廟」は明代永楽4年(1406年)に建設された。 |
「城隍廟」は天津城郭内のもう一つの廟であった。
城隍廟劇舞台には対聯があり とっても趣のあるものであった。
上には『善報悪報、循環果報、早報晩報、如何不報』
下には『名場利場、無非劇場、上場下場、都在当場』と書かれていた。
もう今ではこの「城隍廟」は無くなってしまっている。学校に通っているころ「城隍廟」が通り道にあった。
「城隍廟」縁日にはお参りの人が多いだけでなく 露天の店が多く 縁日で遊びにきている人、商売をしている人
ものを買う人、歌を歌っている人 色んな人でごった返していて 縁日はまるで大きな市場のようであった。
好きだったのは線香をあげるのを見ることだった。
手にうやうやしく線香を持って何歩かあるいては拝み ずっと拝んでいる。
多くの人が 拝みにくる人を見ると道を譲る。
お参りにくる男性は 孝行もので 家に病人がいるとか 年老いた家族のために祈るのだ。
お祈りにくる女性も見ることがあった。 家の後継ぎに恵まれない時には
女性だけが線香をあげることができた。
特にこのような女性は特に尊敬され、そのうしろには多くの人が付き添っていたものだった。
「城隍廟」の縁日は解放初期まであったがそのあと次第に廃れて行った。
天津「城隍廟」の跡地は今は小学校になっており 小学生の朗読する声が響き渡っている。
清真大寺 | 現在 | 旧 |
「清真大寺」北大寺(2002年7月) | 「清真大寺」 |
清真大寺:天津旧城の西北角の近くに位置する。天津で一番規模の大きい清真寺。周りには回族が非常に多い。 北大寺と一般に呼ばれている。 |
舻舳相銜 | 勧業場・八大天 |