老天津と新らしい天津
- 第3話 -


舻舳相銜

明朝中期には天津は既に漕运(note参照)の中心都市となっていた。
当時天津の大運河で食料を運ぶ船は1万隻とも言われていた。
天津の河という河は食料船で溢れ返り 「水面が見えないほど」という表現が使われるほどであった。

漕运:政府が南北大運河で食料を北に運ぶこと

三岔河口波止場(向こうに見えるのは金鋼橋) 康熙《畿輔通志》より 清末期三岔河口波止場 1900年代初めのイギリス租界波止場 清順治12年オランダ使節団が天津海河に入ったことろ


明代の《天工開物》の《漕运图》には天津に入ってくる食料船の形が描かれている。
また《潞河督运图》には18世紀の天津三岔口一帯の舻舳相銜の様子が描かれ 当時の繁栄ぶりがうかがえる
天津では 食料船のほか塩の漕运もあり 塩が天津の商業を起こしたともいえる。
炮台付近の天津の塩田
清時代には天津は既に中国北部での商業の中心地となり 河北大街、北大関、鍋店街や宮南、宮北 は、いち早く商業で繁栄した。
その繁栄振りは現在の東京、パリに匹敵するものだった。
水陸交通に恵まれた天津は 南北両方の集積地となっており 天津にくれば 手に入らないものは無かった。
また 天津で売れないものは無かった。
河北大街(金華橋付近) 北大関


江蘇、浙江の商人はシルクを運び 東北の商人が木材を運び 闽広東の商人が砂糖、茶、果物を運び 外国商人が舶来の驚くようなものを持ってきた。
康熙年間に本にもなった《天津卫志》には  これは天津の歴史で初めて輝かしいイメージで書き記されたものだった。
明代中期は物品の集散地というだけでなく南北からの人材の集まる場所でもあった。
当然当時は儒教を重んじ商業を軽んじる時代であり 学者は昔から商人を軽蔑してきた。
しかし 天津は結局のところ 学者が生んだ町ではなく 南北の商人が作り上げた町なのだ。
昔からずっと『天津の道には白銀が転がっている』といわれていたものだった。
これは 天津ではどんな商売でもうまくいく。 どんな商売でも儲かる。ということを意味する。
これから 天津人にはひとつの習慣が生まれた。
『何もすることが無ければ家の中にじっとしているのではなく 町をぶらぶらしてみろ。 金が無ければ金儲けをしろ。金があれば金を使え。』
このように天津では何百年と通りには人が途絶えることは無かったのである。

金鋼橋の袂の「直隶总督街门」のあった場所 金鋼橋の袂の「直隶总督街门」 1930年代の金鋼橋

宮北大街(現在は古文化街として道行く人が絶えない) 大胡同(金鋼橋から見たところ) 鍋店街(2001年取り壊された) 紫竹林街(現在の英・仏租界の間と思われる) 宮北大街

天津衛 三宗宝 子供のころの思い出 「縁日」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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