大沽口炮台
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大沽口炮台遺跡入り口 | 大砲 | 大砲 | 炮台の上部 | 炮台 | ||||
大沽口炮台には 威、鎮、海、門、高 という5つの炮台がある。
ここは そのうち 「威」という南炮台で、1841年(道光21年)に作られ。
第二次阿片戦争でその威力を発揮したが、1900年「庚子事变」後の<辛丑条约>の規定により取り壊しになった。
現在残っている炮台は「八国連軍」が破壊したあとに残った遺跡である。
1840年英国は北中国侵略するため交渉を清と開始した。 | 1840年8月英国は北京を脅威に陥れるため 大沽口に進入。 | |
1856年10月 英、仏は米、ロシアの支持を受け 第二次阿片戦争を発動した。第二次阿片戦争は戦火を北に向け
清政府に圧力をかけるため 戦場は大沽口であった。
1858年4月4カ国艦隊は大沽口に到着すると 政府に天津を開放するよう要求。
回答が無いため5月20日英、仏連合は 大沽口炮台を占領、天津を陥落させ、清政府に海光寺にて天津条約を締結するようせまった。
1858年5月英仏連合軍は大沽口にて清政府と交渉 | 1858年海光寺での天津条約の風景 | |
1859年6月北京に侵入する口実を作るため 再度大沽口炮台を攻めたが 成功しなかった。
1860年8月兵を大沽口に集結させ 再度天津に進入し、北京を陥落させ 有名な「園明園」を破壊した。
そして10月に またもや屈辱的な「北京条約」を締結させ 天津を貿易港として開放させた。
1860年仏軍が大沽口を占領したときの風景 | 1860年炮台の上に英仏連合軍の旗がはためいている | |
1895年甲午戦争に失敗した中国は割譲される危機に見舞われ、1900年反帝愛国主義の義和団運動が 北京、天津地区を中心にが勃発した。 この義和団運動を弾圧するため イギリス、フランス、ドイツ、日本、ロシア、アメリカ、イタリア、オーストリアは 「八国連軍」を組織し 大沽口に進入した。 6月16日「八国連軍」は清に対し炮台を提供するよう要求、拒絶した後 17日早朝大沽炮台を攻撃 激戦は6時間続き 多勢に無勢 大沽、北塘の炮台は陥落し、北京、天津も陥落。 1901年9月 清政府は屈辱的な<辛丑条约>を結ぶ事になった。
1900年八国連合軍が大沽口に上陸する風景 | 1900年八国連合軍が大沽口に上陸する風景 | 1900年大沽口が陥落 | ||||