老天津と新らしい天津
- 第8話 -


浮浪者の出世

租界の出現は 天津に奇妙な発展をもたらした。
天津の各租界はそれぞれに小さな政府があり その全てが治外法権の権力を行使していた。
租界の中では その地を借りている国の法律が施行され 中国政府はその租界地に入って人を捕まえると言うことはできなかった。
ある人が法を犯して 租界に逃げ込めば 中国政府は租界政府に対し引渡しを要求できるだけで 租界政府が同意しなければ 中国政府としては何もできず ただ犯罪者が自由にしているのを見ていることしかできなかった。
しかし 租界の中では 外国の
『巡捕』(注1)は中国人を捕まえることができたのだった。 租界にはいろいろな税金があり、租界に住む中国人はまるで外国に住んでいるのと同じように 税金を納めなければならなかった。

行政機構のほか 各租界の中には各国の『兵営』があった。天津人は英国の『兵営』を『英国营盘』と呼んだ。 フランスにはフランスの『兵営』があった。このほかに日本租界には日本駐屯軍司令部、イタリア兵営、アメリカ兵営などであった。
天津は中国の一大都市であったにもかかわらず 多くの国の『兵営』が駐在していたのだった。

現在
紫竹林兵営
法国海軍・陸軍司令部
1915年建築
旧イタリア兵営 イタリア兵営

西側各国は租界地を基地として中国経済に次第に浸透し始め、租界地でも大規模な建築が始まった。
フランス電灯、ベルギー電車、電動の鉄橋、河川浚渫工事など次々に工事が始められた。
何年もかからないうちに 天津では 電気、電話、電車 それから数多くの道路が建設され 天津は東南アジアの中で上海と肩を並べて称せられるまでになり、 中国のその他の大都市の先端を行っていた。

外国人が天津で投資すると それは当然かのように 見る見る儲かるのであった。 
ベルギーが天津で電車会社を開き 電車を走らせると 僅かの間にその投資は回収できてしまうのだった。
その後 ベルギーは全教育費をこの電車会社が負担することになった。
言い換えれば 天津人が一枚の銅板を払って電車に乗ることで 全国のベルギーの青少年が教育を受けられることになったのだ。 
なんと中国人は偉大なんだろうか。
しかし 一方では 天津の数知れない貧しい子供たちが、相変わらず 壊れかけた学校で学ぶ子もあれば、貧しくて学校にも行けない子もあるという事実を思うとき 私をなんともいえない気持ちにさせるのだった。
天津租界は冒険家の楽園だ。 多くの外国人浮浪者、チンピラ 達が 体一つで天津に来、僅かの時間で百万長者になったものも出てきた。

その中で 『施礼徳』の話は 深く考えさせられるものがある。
ドイツの浮浪者『施礼徳』は天津に初めて来たとき 肩に一足のボロ皮靴を下げているだけであった。
船から降り 食べるものを探したが 一日食べるものは見つけられなかった。かれは天津の町をぐるぐる回って夜九時ごろやっと一匹の犬がどこで拾った骨か知らないが 一つの骨を銜えているのを見つけた。
幸い周りには誰もいなかったので 犬から骨を奪い取って食べた。これが彼の中国の最初の「メシ」であった。

大日本帝国
天津駐屯軍司令部

米国占領軍兵営

2日目『施礼徳』は食べ物にありついていた。 どこから手に入れたかというと これは彼自身商売をし、もうけたお金で 食べたのだ。
「天は誰の道をも拒まない」『施礼徳』はドイツ租界のある洋館の壁の隅で夜を明かそうと考えていたとき ある物が上から投げ捨てられたと思ったとたん ちょうど それが『施礼徳』の傍らの地面に落ちた。
それが 「とん」と音がしたとたん 『施礼徳』は拾い上げると それは 幾らにもならない 一袋の裁縫針であった。
『施礼徳』はこの針の袋を見て笑った。『ドイツの女は、手不精だ! ご飯を炊くのは好きだが 裁縫は嫌いだ。だからドイツから持ってきた針は どれだけ長い間持っていても使わないばかりか 目に付くと煩わしい。 だから そのまま捨ててしまうのだ。』

夜が明けると『施礼徳』は肩からぶら下げていた靴を履き、昨夜拾ったドイツ針を持って意気揚揚と中国人の地へ出かけた。
彼の前にあるのは一枚の板と一袋の針袋。 彼はそれを開き数えると一袋の中に6包み 全部で72本の針があった。
彼は一本の針を取ると それを 遠くの板に向かって投げたのだった。 「ダン」という音と共にその針は板の上でビビンと振るえて刺さっていた。
『すごいぞ!』この時 施礼徳は覚えたての中国語を叫んだ。
彼がひとたび『ドイツの針、板に突き刺してみてもその針先の鋭さはまったく変わらない』と大声をあげると 何百人もの人が彼を取り巻くのだった。
ドイツの針は本当に良い物だった。半日も経たないうちに 施礼徳は一本一角(10分の1元)の値段で72本の針が見事に全部売れてしまった。
これで7元2角の金が出来た。施礼徳はドイツの租界に行き一軒一軒針を買って歩いた。ドイツの租界には針をまったく使わない女性が山のようにいた。
1角一袋で施礼徳は72袋の針を買うことが出来た。
一袋には72本の針があり、72袋では 5184本の針となった。 これで施礼徳は518.4元を儲けることが出来た。
この頃天津では一袋のメリケン粉が2元だったので これだけのことでどれくらい金持ちになったかわかる。
施礼徳のこの奇跡的な成功が 多くの外国人の流れ者を引きつけ 天津のどんなゴロツキでも 施礼徳のように 一文無しから 財をなすような商売を始めるようになったのだった。
(注1)『巡捕』:租界時代の租界の中の巡査を『巡捕』と呼んだ。

1816年頃の
海河楼(天津考工廠)

戈登花園 零落

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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