老天津と新らしい天津


戈登花園

現在の天津市政府のあったところ 昔は西洋建築の『戈登堂』と呼ばれていた。
天津租界を作るときに功績のあった英国皇家工兵の戈登大尉の名をとって付けられた。

『戈登堂』

ビクトリア公園からの
『戈登堂』

阿片戦争に敗戦後 清政府は英国と南京条約(注2)を締結し5つの貿易港を開放した。
英国公使は天津城の東南、海河の右岸の紫竹林街以南を英国租界とする提案を出した。
面積は約460アールであった。

清政府は気前よく承諾し 戈登はこの英国租界つくりを実施し その功労者となった。
1890年英国工部局ビルを『戈登堂』と名づけた。
一人の名もない大尉が天津近代史に彼の名を残すことになった。

英国租界地を決めた後 英国人はここの移り住み 英国と同じような生活をし始めた。
私が大きくなったときには既に租界地は無くなってはいたが 過去の租界の頃の生活の跡が依然として至る所に残されていた
もっとも特徴的なのは 元英国租界の中心地「小英国市場」であった。
ここで売られているもの食べ物から何から何まで全て英国製のものだった。
金儲けのため商人たちはありとあらゆる方法で英国製品を仕入れ 
ロンドンや英国の故郷で手に入るものは この「小英国市場」で手に入ったのだ。

天津の英租界地は在中国の英国人だけにとっての楽園だけではなく ハイクラスの中国人にとっても一つの楽園であった。
この英国租界には『中国人と犬は立ち入るべからず』というような立看板はなかったが 一般の中国人が自由に入れるところではなかった。

英国租界の出入りは普通はどんな検査も必ずしも必要ではなかったが ひとたび何か起こると 租界は閉鎖された。
毎日租界に出入りしなければならない中国人にとってこの閉鎖は厄介な出来事であった。
たとえば 軍閥の混戦、暴動が起こると 英国租界は閉鎖し 中国人が避難流れ込んでくることを防止した。
また 伝染病が流行っているとの流言が流れても英国租界は閉鎖され 中国人は入れなくなるのだった。
勿論 閉鎖されたときに 租界の中に閉じ込められた中国人は いつでも租界から出 家に帰ることはできるが 次の日 租界の中には 入れなくなるのだった。
だから このように緊急閉鎖が起こると 租界の中で仕事をしている中国人は 一時的に租界の中に寝床を探すのだった。
一旦このようなことが起こると 半月も家に帰れない事もあった。
租界の中からは 電話もつなげられないし 家があっても 帰ることができなかったのだ。

英国人が治めていた租界は天津の9つの租界の内でもっとも管理がよかった。
私たちが大きくなった頃は もう既に租界は無くなっていたが まだまだ昔の面影があり 租界が無くなっても大きな変化はなかった。
伯父さんが租界のある洋館にいたとき そこに住んでいると 中国人居住地より確かに静かであったし 道は広く 環境はとっても良く気持ちが良かった。
黄昏時の租界では 道を行き交う人は殆どなく 偶に自動車が行き過ぎるくらいで 静かでまるで 公園の中に暮らしているような感覚であった。

租界地の生活環境が快適だったので多くの北洋武人(注2)たちがここの建物を買って 移り住んだ。
清末期皇帝「溥儀」が冯玉祥に皇宮を追い出されたあと天津英国租界の张园に移り住んだし、そのほか 张勋、徐世昌、孙传芳など英国租界を邸宅とした。
彼らは中国はきっと何も変わっていかないだろうと思っていたし それにもまして 変わってほしくなかったのだ。
彼らは 英国租界の邸宅をユニオンジャックの旗が保護してくれる永遠の領地としたのだった。
20世紀は天津の租界が最も栄えたときであった。
不安定な世界で 自分の国でどうしようもなくなった失意者、孤独が嫌いな者、賭博が好きな者、冒険者 など人たちが中国のこの租界の地でかれらの奇異な生活を作り出したのだ。
ここはライフル銃で維持している『新疆の地』で 毎日踊ったり歌ったりして太平を祝う 外人冒険家たちの楽園だった。

(注1)北洋:清朝末期、奉天、直隷、山東(現在の河北、遼寧、山東)などの沿海地区をこのように呼んだ。

「起士林」
現在
租界時代に建てられた「起士林」の改築後 1940年引っ越した
「起士林」
租界時代の「起士林」


一人のドイツの浮浪者「起士林」(Kiessling)が天津に流れ着き 天津で財をなしたというのはこの典型である。
1918年 ドイツの皇帝「威廉2世」が追われてオランダに逃げたとき もともと この皇宮のコックであった「起士林」は 一人中国の天津にやって来た。
何もなかった彼は 西洋人たちが口に合わない食事をしているのを見、英租界で小さな店を開き 西洋人が好きなバター菓子を作って売った。
「起士林」はもともと皇帝「威廉2世」のデザートのコックだったので すぐさま彼の作る菓子は普通のものとは違っており 自然と西洋人の間で人気を博した。
「起士林」はお菓子で財をなし その後英国租界地(ドイツ租界の間違いと思う)に土地を買い レストランを作った。
このようにして 天津に正統西洋料理レストラン「起士林」ができたのである。

「起士林」はドイツ本場の料理、ロシア料理で打ち出し、 すぐ天津の外国人のもっともよく集まる場所となった。
その後 このレストランでドイツ風ステーキ、フランスパンで舌づつみをうつのは西洋人だけでなく 中国人紳士、中国人遊び人まで よく「起士林」にやって来て 箔をつけるのであった。
天津の流行を追いかける人たちにとって 「起士林」に行くことが一つの流行に乗っている証であったのだ。
一時 「起士林」そのものが天津人の西洋化追及の象徴であった。

小さいとき父に連れられ「起士林」に行ったことがある。 そのときの店は果たして華やかに飾られそして風格があった。 店の入り口に立つ赤い服を着たボーイが 客が来るのを見るや否や 早速ガラスの扉を開き丁寧に礼をして 店に入れてくれるのだった。
レストランの中は ランプの光が至る所で輝いていた。
1階の真ん中はダンスフロアになっており その周りが優雅な雰囲気の喫茶店となっていた。ダンスフロアの脇には楽団が西洋舞曲を演奏し 時々踊りたい人がそこに行って踊るのであった。
2階は本式の西洋料理を食べさせるレストランで 内装はもっと豪華であった。
そのとき何を食べたのかは覚えていないが ただ覚えているのはウエイトレスが大きなお盆にいろんな種類のパンをのせてテーブルの間を歩いていたことだ。
「起士林」では このパンはサービスだった。

小さいときから「起士林」のなじみ客だったので 大きくなってからも 金がちょっとできると 「起士林」に行きたくなったものだ。
当然「起士林」でも 時代共にいろんな変化があった。ここでワンタンや餃子を売っていたこともあったが その後また 元のように戻った。
私の同僚たちは「起士林」を見たことがなかったので 私が連れて行ったことがある。
何を食べるのかは相談しなかったのだが 血が滴る生牛肉を勇気を奮って食べている彼らの姿を見ていると 自分がたべることより うれしかったものだった。
これも 昔の半植民地のなごりを思い起こさせるものであった。

 
(注2)南京条約:イギリスが中国と結んだ最初の不平等条約。江寧条約とも呼ばれている。
 1842年8月29日(道光22年7月24日)英艦コーンウォリス号において,清国全権耆英、伊里布とイギリス全権ポティンジャーとの間に南京条約全13条が締結された。  同条約は翌年6月に香港で批准された。
 南京条約では、
(1)広州、福州、厦門、寧波、上海の5港を開放して商埠とし、イギリス人の居住・交易を許可すること。
(2)香港の割譲
(3)アヘンの賠償、公行商人の債務、戦費の賠償として計2100万ドル を支払うこと。
(4)関税率を相方の合意に基づいて協定すること。
(5)開港地に領事を駐在させること。
(6)公行制度などを廃止すること。
引き続き、南京条約の補足として領事裁判権などが明記され 同年10月 開港場におけるイギリス人の土地租借および住居建築が認められたことにより 外国租界が認められることになった。

丁丁当・・・・・ 浮浪者の出世

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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