老天津と新らしい天津


丁丁当・・・・・

天津の電車は1906年に始まった。
「庚子の乱」、「八国聯合」の爆撃が天津の城壁を瓦礫に変えると 強制的に城壁を取り壊すよう政府から告示がされた。
この時から 天津の城壁は4本の道に変わった。これが現在の「北馬路」「東馬路」「西馬路」「南馬路」である。

1902年ベルギー通用銀行が天津で電車の会社を設立する特許権を取得すると 1906年には天津の旧市をぐるっと回る電車を作った。
ここで初めて天津に電車が出現した。天津人に言わせると これは本当に大きな出来事だった。
電車の切符は1枚の銅板(昔のお金)にも満たなかったので 貧しい人でもみんな乗れた。当然みんな本当に便利になったと感じたものだった。

現在
現在未撮影
路面電車は現在ない。天津には地下鉄がある。 開設当時の電車

1920年代になると天津の電車は町の全土を走り回っていた。
それは旧天津城の周りを走っている「白牌電車」のほかに 北は北駅、東は老龍頭駅(現在の東駅)、西は老西開教堂まであり まさにくまなく市街地を網羅していたと言うべきだろう。
線路の有る電車、決まった線路の上を 決まった順番で 一つ、一つと道路の上を走って行く。
電車を運転することにそれほど高度な技術は必要無いのかもしれないが 電車の運転手には「新米」と「ベテラン」の区別があった。
その区別はベルの鳴らし方で決まっていた。 電車のベルの鳴らし方には その運転手の癖があった。
普通は「ディンディンダァン、ディンディンダァン、ディンディンダァンダァンディンディンダァン」とならした。
ちょっと派手なのは「ディンダディンダダァン、ディンダディンダダァン」電車のスピードに合わせて鳴らすのだった。このベルは本当に面白かった。

路面電車は一つ一つの電車箱の中に切符を売る車掌がいた。 一人一人の切符売りはみんな首から紐でペンキャップのような笛をぶら下げていて 吹くときに口にくわえ吹くのだった。
車掌はいつでも好きなときに笛を吹くのではなく 電車が出発していい時の信号として笛を吹くのだった。
電車が駅に止まり 人が乗りこんできて ドアが閉まると 車掌が笛を吹き 運転手が電車を発車させるのだった。
車掌が笛を吹いて事故を起こしたら それは運転手の責任であった。 電車会社の責任を分担は本当に明確なものだった。

  (老天津より)
北門外関付近の電車 《鉄道火輪車》年画 当時の電車が混んでいた諷刺画

天津に電車が走り始めた頃から自動車が天津にも入ってき、一部の富豪が自動車に乗り始めるようになった。右の写真はその頃の自動車の広告。 

勧業場・八大天 戈登花園

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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