老天津と新らしい天津
- 第1話 -


宝の地:天津

「林希」氏筆の「老天津」は次の書き出しから始まる。
『天津人は故郷が好きだ。ひとたび故郷を口にすると 必ず出てくるのは「われわれの天津は宝地だ!」という言い方だ。
実際天津にはいい田んぼなど無いし、鉱山もない、9本の大河があるだけであるが 確かなのは 代々何千万もの天津人が生きてきているという事実だ。
これこそ 天津が宝地と呼ばれるに相応しいのだ。
天津の知名度は天津の特産品と一緒になっている。日本では天津甘栗を知らない人はいない。
しかし 日本人は日本甘栗は食べない。天津甘栗を食べる。多くの天津甘栗商人はこれで財をなした。
東南アジアでは 人々に非常に多く食べられているのが 天津白菜である。
まだ空輸が無かった頃 そのあたりではどんな高い果物より 天津白菜のほうが珍重された。
さらに 南方の人々は果物の上品である天津鴨梨はもっともっと口に出来ない代物だった。

天津には世界に轟くこの3つの特産があって どうして宝地でなかろうか?

しかし 本当の天津人は世界中で天津特産だと思われているこの3つのものの内 2つは天津のものでないということを知っている。
天津鴨梨 実はこれは泊鎮鴨梨である。
しかし泊鎮は非常に小さい村で、またこれは天津に一旦集められてから各地に輸送される。
そこで 泊鎮鴨梨は天津鴨梨と呼ばれるようになった。
泊鎮鴨梨の木
天津鴨梨はアジア通貨危機までのあいだ 輸出で大きな財をなした。『泊鎮鴨梨農園』はここをクリック


栗は山で採れる。天津には山が無い。これで どうやって天津甘栗が出来るのか?
所謂天津甘栗は山地で採れ天津に集積されることから天津甘栗の美しい名前がつけられる事になった。

しかし 白菜は天津の作物である。
天津郊外で採れる白菜の芯は果物のように甘い。天津人がこれを自慢するのは無理も無い。

天津人は自分の故郷を宝の地と信じているから自然と故郷を熱愛する。
この愛は一種の盲目的な感情を伴っている。
だから天津人は「天津は何処よりも良いところ」と思い込んでいる。
食べるものに凝っており、着る物は最新のモードで 中国の何処よりも進んでいると信じている。

昔からの天津人は天津は良い、其の名の通り天津は当時 ほんとうに北京より良かった。
また 事実 20世紀初めは天津は香港よりより栄えてた。
いまや 香港はとてつもなく繁栄し、 香港人と会うと自分が惨めに見えてしまう。
これも 運命 どうしようもない。

20世紀初め まだ北京市内に舗装路が無かった頃 天津租界地では既にアスファルト路が作られていた。
イギリスの租界地 維多利亜路(現在の解放路)には高層建築が建てられ 道路は平らで広く  常に掃除がなされ綺麗であった。
夜になれば 人影が路面に映し出され 人々を驚かしたものだった。
現在の解放北路
解放北路は租界のころから今も天津の金融街だ。 『解放北路の建物』はここをクリック

このころ天津では 道路が出来れば 自然に電灯がつけられた。
1930年代に天津には街灯がつけられた。 ひとたび夜になれば道路の街灯に灯がともった。
そのころの北京では まだ 提灯を持って外出した事に比べれば 天津は既に早くも現代化が進んでいたと言える。

アスファルトの道路、高層ビルの建設で 天津の表情は全く一変した。
新式の橋梁建築が 天津を格別美しく見せた。


解放橋:


現在の開放橋:建設後70年
2002年6月撮影
天津河北新浮橋風情画 万国橋

早くも1987年天津は子牙河と北運河の交点に鉄橋を建設した。これが「大紅橋」だ。
50年後の洪水で流され その後その付近に 「新大紅橋」が建設された。
これより少し早く 1927年 天津(東)駅付近に「万国橋」が作られ 天津人は この橋を「フランス橋」と呼んだ。
これは 現在の「解放橋」である。
この橋は2つの橋桁で3つの部分に分かれていて 真ん中の部分は 両側から開く仕組みになっている。
70年たった今でも この橋は使用されており 多くの映画作品で撮影されている。
天津のすばらしさを語るとき 必ず この鉄橋が出てくるのである。

大紅橋:


現在の新大紅橋:建設後65年
2002年6月撮影
新大紅橋
1933年開工、1937年竣工
大紅橋
1887年建設 
その後洪水で流される

大紅橋は建設当時はすごい橋であったに違いないが 今は自転車などが主に行き交う市民生活の橋になっている。

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