老天津と新らしい天津
- 香港の運命を決めた天津 -


香港の運命を決めた天津:白河投書

1840年英国軍艦が中国に攻め込み 先ず広州、白河口(現在の海河河口)を封鎖した。この時英国海軍が直隶に提出した抗議書が『白河投書』である。 

18世紀半ば 英国は東洋に市場と植民地を求めていた。 天津と香港はその特殊な地理的位置、優れた交通条件から西側列強国は喉から手が出るほど天津、香港を手に入れたいと思っていた。  そこで共同で植民地侵略するために 天津で『白河投書』が提出された。 これが香港の命運を決定したのだった。

1792年英国は乾隆皇帝の誕生日を祝うという口実で船を香港から天津に向かわせた。 承徳で乾隆皇帝に謁見すると 広州附近を一部割譲することと 天津を通商港として開港するような強引な要求を出した。  これはたちどころに拒絶されたが 英国は諦めず 1816年嘉慶皇帝に謁見したとき同じような特権を得ようと画策したが これも未成功に終わった。  それでも英国は何度も天津、香港にて偵察活動をし、大量の政治、経済、軍事上の情報を集め 後日の武力侵略に備えていた。 

清政府は鎖国政策を取っていたので 西側列国にとって中国市場を奪取する大きな障害となっていた。  合法的に中国との貿易が出来ず甘い汁を吸えない英国は 巨額の利益を得るため 不法で非道な阿片貿易を進め 狂ったように中国の経済を奪ってしまった。  白銀は流出し 国庫は枯渇し 清政府は政治統治危機に陥った。

1839年 林則徐は虎門で阿片を焼き払い 英国侵略者を打ちのめしていた。  1840年 英国戦艦砲火で広州を攻撃し 第一次阿片戦争が始まった。  英国軍は2手に分けれ 一つは珠江口、長江日を封鎖、もう一方は大沽口に向かった。 

表面上は『白河投書』は英海軍総司令官「鹉律」が大沽口でアメリカの紹介で直隶総督琦善を通じて道光皇帝に渡された書類で 清政府と交渉を要求したものであるが、 実際は 武力による威嚇で 清政府に投降させるのが目的であった。 

英国が清政府に提出した覚書の内容は主に、林則徐が広州でやっている阿片禁止運動に講義するもので  阿片の賠償、 島の割譲 軍費の賠償などを要求した。 

まったく間の抜けた道光皇帝は英国人は林則徐に阿片を焼き捨てられたと 苦情を申し立てに来、大清帝国に恩典を要求し、林則徐を調べさえすれば 英国軍は去っていくだろうと誤解していた。  道光皇帝の助言により 1840年8月30日 なんでもまるく収めようとする能力に長けていた伝善は 大沽口の海岸で 英国と何度も交渉した。  伝善は何度も林則徐のやり方を非難し 英国軍との交渉をうまく進めようとした。 英国軍が南の広州に帰らせることだけを考え どんなことも  相談に乗ったのだった。

伝善の懇願により 英国軍は最大40日の武力封鎖を停止し、9月15日に南に軍を退き 「白河投書」事件は終了した。 しかし この結果 天津と香港にその後の社会変化と阿片戦争が非常に悪い影響を与えたのだった。  白河投書は 英国侵略者が清政府が全く力が無く、林則徐が免職させられるとを知っていて 琦善を起用させた。  琦善を起用させれば 香港の割譲は決まったも同然だったのだ。

北方網 香港-天津周 より

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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